@article{oai:kogakkan.repo.nii.ac.jp:00000014, author = {千枝, 大志 and CHIEDA, Daishi}, issue = {1}, journal = {皇學館大学研究開発推進センター紀要, Bulletin of the Research and Development Center of Kogakkan University}, month = {Mar}, note = {本稿の目的は、皇學館大学研究開発推進センター史料編纂所が所蔵する「大主家文書」なる百点を超える伊勢御師大主家に関係する古文書について、その書誌的な概要と、同文書のうち、慶長年間(一五九六〜一六一五)までの主な古文書を写真画像と史料翻刻により紹介しつつ、あわせて、中世から近世における大主家の存在形態について言及することにある。とりわけ大主家に関する研究については専論がほとんど無いこともあってか、未だ不明瞭な実像であるため、本稿では今後の「大主家文書」の活用の便を図るため、大主家の本拠地をはじめ、一族や檀那場(檀所)の構造などの同家を理解する上での基本事項について若干検討した。 その結果、大主家は、十五世紀後半より伊勢神宮外宮門前町山田の八日市場町を拠点とした度会・荒木田両姓ではない異姓家の外宮側の伊勢御師(旅館を経営する旅行代理業者と伊勢神宮神職とを兼務した今風にいえば総合エージェンシーのような職種)であった。大主一族の檀那場については、中世末期段階では、計七箇国(三河・近江・山城・伊勢・大和・河内・美濃)からなり、それを近世中期段階の主要な檀那場(甲斐・紀伊・越前・近江・美濃・三河・伊賀の計七箇国)と比較すると、近江・三河・美濃の各国が、中世末期から近世中期まで一貫した檀那場であったといえる。 一方、大主家の伊勢御師としての活動以外にも注目すると、大永年間(一五二一〜二八)に本拠地を八日市場町内の坂之世古から横橋へと移しているが、その動機としては、十六世紀初頭からの商業座の購入にみられるような山田の主要市場である八日市庭への積極的な参入意識、すなわち多角的な経済活動がその背景にあったと推察できる。 また、大主家の一族構造としては、文禄三年(一五九四)から延宝五年(一六七七)までは二家独立の構造だったが、貞享元年(一六八四)から安永六年(一七七七)年までは三家、それ以降は二家となることを指摘した。}, pages = {121--137}, title = {「大主家文書」について}, year = {2015}, yomi = {チエダ, ダイシ} }