@article{oai:kogakkan.repo.nii.ac.jp:00000087, author = {井上, 兼一 and INOUE, Kenichi}, journal = {皇學館大学紀要 = Bulletin of Kogakkan University}, month = {Mar}, note = {本稿の目的は、昭和戦前期の学校教育における就学義務規定の内実を明らかにすることである。1872(明治5)年以降の学校教育の理念として、“国民皆学” が掲げられてきたが、昭和戦前期に至るまでそれは実現できていなかった。明治期半ばから適用されてきた小学校令においては、保護者の就学義務について、貧困を事由にして免除や猶予が認められていたからである。また、そのような家庭の児童は、労働に従事するなどして十分な教育を受けられない境遇に置かれていた。  児童の労働問題や学校教育制度の改革に着手したのは、1936(昭和11)年の二・二六事件後に発足した広田内閣の平生釟三郎(1866-1945)文部大臣であった。平生文相の在職中には、省議で義務教育年限の延長や教科課程の刷新が図られ、また大蔵省や閣僚との折衝が進められて “義務教育法” 案が策定されるに至った。その内容については、保護者の就学義務の免除や猶予を許可せず、さらに児童による労働を禁止することに焦点づけられたものであった。小学校令を踏襲する内容であったが、雇傭主に対する罰則規定が明記された点は特筆されることであった。しかし、この法案は内閣の解散により実現することはなかった。  その後、1937(昭和12)年12月に近衛内閣に教育審議会が設置され、学制改革の論議が重ねられた結果、1941(昭和16)年4月に国民学校が発足した。小学校令と国民学校令における当該規定を対比・検討すると、貧困を事由とした保護者の就学義務の免除や猶予に関する条文は削除されることになった。  さらに筆者は、教育だけでなく労働にかかわる法規を探究したところ、児童による労働を規制する規定があることを指摘した。それによれば、原則として学校に就学する児童は労働に従事することが禁じられた。国民学校においては、このような諸規則の整備を通じて、“国民皆学” すなわち国民の教育の機会均等の保障が目指されたと言えるであろう。}, pages = {191--171}, title = {1930~40年代における就学義務規定に関する一考察}, volume = {56}, year = {2018}, yomi = {イノウエ, ケンイチ} }